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4年ぶりの母との再会

   

私は4歳まで父を知らず生き父と生活をするようになったのはたったの半年

後から写真で見ると実際は2歳ぐらいまでは父と母が仲良く暮らしていた事をしりました。

それは私が施設に入ってから知る事でした…

 

そんな中やっと母と会えるという事になり私は本当にうれしくてしかたがありませんでした。

前回:それなりに生きていける

久しぶりの再会

私が児童養護施設に入ってすぐの事でしたが実は母が私を引き取りたいと申し出をしていたそうです。

ただ、私がこれまで両親と離れたり施設に行ったりとたった数年でいたるところに移動したので職員である先生が本人が混乱するからもう少し落ち着いたらと断っていたそうです。

何より法律上の問題があったから…

この時父はまだ病院に入院をしていたので何らかの手段で親権を母に移す事も可能ではあったみたいですが私にはよくわかりません。

 

母と再開したのは私が小学校4年生の時です。

母は私に合いに来てくれました。私以外にも施設の先生も一緒でした。

しかし、兄はここには居ませんでした。

※後日記載

数時間一緒に食事をして大人同士何やら難しい話をしていました。私には何を話したのかわかりませんそんな感じで数時間して母との時間は終わり施設に帰る事に…

父と母がまた仲直りしてほしいと願った

施設に帰ると自分の父と母がなぜ一緒にいてくれないのか。

なぜ、家族全員一緒にいられないのか本当に悲しくて何度も何度もなき『神様どうか家族がまた全員一緒になれますように』と願いました。

 

当時自分の人生の人生が本当に呪いました。

なぜ、自分だけが。

なぜ、家族が一緒に入れない

なぜ…

この時より私は幸せと言う目に見えない何かを自然と望むようになったんだと思います。

母と会う機会が増えるようになる

そんな感じで私は小学校6年生ぐらいの頃から夏休みになると1ヵ月程母と生活をするようになりました。

もちろん母も仕事をしていましたので1ヵ月と言っても母とどこかへいけるのは数日でした。

 

夏休みという事もあり親戚の方とも一緒にいろいろな所へ行く機会も増えていよいよ決断の日が迫って来ていました。

 

母と一緒に生活をするかどうなのか?

 

小学校から中学校に上がるタイミングがいろいろと良かったのか私の答え次第で親権が母に移るのかどうなのかと言う事です。

 

私は母だけでなく父ともよくあっていました。

病気が良くなるたびに遊びに来ていました、たぶん月に1回はあっていたと思います。

 

父も母も会えるのに全員一緒ではなくどちらかに行かなければいけないという事が当時の私には決断するにはまだまだ勇気が足りなかったと思います。

 

私が決断したのは『中学校3年間』はこのままでと言う事でした…

 

 

 

中学生活から高校生活までへつづく

 

 

 

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村瀬

村瀬

普段メインブログで書けない事をこちらで書いています。 たまには人間臭い事も書きます。

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