兄と2人だけになって
母も父もいなくなり私は兄と2人だけになった。
それからすぐどうなったかはあまり覚えていません、ただ親戚にどこかへ連れていかれた事だけを覚えています。
前回:離婚後の生活と私生活
兄と私の生活
私はどこかの施設に入ったんだと思います。
精確に言うと施設に入る前の仮の施設か何かだと思います、今でもあまりわかりません。
私と兄はとりあえず同じ境遇の人が集まるどこかわからない所で生活をする事になりました。
どんな施設なのかはあまり覚えていません、ただ逆算すると小学校1年生の後半から入って出たのは小学校2年生だったので多分半年です。
そこでの生活は各部屋事に4人ぐらいが一緒に生活していたと思います。
そこでの生活は朝起きて部屋の掃除 → 担当の持ち場を掃除 → 勉強 → 遊ぶ → 起床
だったと思います。
私が覚えているのは掃除と勉強だけです。
どんな食事をとったかやどんな生活を送ったかはわかりません。
ただ覚えているのは勉強後に北斗のケンがテレビで映るのでそれが楽しみだったという事だけです。
児童養護施設へ
それから数か月が経過しました。
私も兄も児童養護施設へと生活をする場所が変わります。私はなんだか施設に入る前の職員の方と別れるのがさみしく感じていた事だけを覚えています。
児童養護施設へと入ったすぐに施設ないの構造やどこに何があるかを説明されすぐに新しく生活をする場所へと入りました。
当時はなぜその施設へと入ったかは全くわかりませんでした。
ただ、兄と一緒ならなんとななるという事だけが記憶にあります。
施設に入ってからの生活は集団生活で本当に食事や勉強といった事も職員の方が一生懸命尽くしてくれて私はそれなりに食事のマナーなどをたくさん勉強しました。
今でも覚えているのが施設での上下関係と兄との兄弟愛です。
私はまだまだ小さく何もわからなかったのですがきっと私よりも兄の方がいろいろな事を理解していたので私よりももっと不安だったと思います。
それでも兄は私をしっかりと守ってくれていたという事を思い出すだけで感謝の気持ちでいっぱいになります。
兄の愛情
私は児童養護施設に入ったのは小学校2年生ぐらいだったと思います。
小学校の担任の先生は数学を専攻されている先生で結構怖い先生でした、別名『チョーク投げの〇〇先生』です。
私は母と別れ、父と別れ、兄とたった2人だけになってしまいましたがきっと兄の方がもっと年齢も大きかったのでつらい思いをしたと思います。
私は常不安でよく泣いていましたがそのたびに兄は私と一緒にいて泣かないようにいろいろな物語を私に話してくれたり。
私と常に一緒にいてくれ常に励ましてくれた事を覚えています。
後にわかった事ですが、兄は幼少期より私を本当にかわいがってくれていて兄としての務めを本当によくしてくれました。
そんな写真が残っていたのを私は今でも思い返しながら写真を見直します。
勉強の辛さ
私の記憶では母はとても勉強熱心の方で私は小学校で私立を受験した覚えがあります。
結果はきっと不合格です。
母は看護師だったのできっと夜勤や仕事がフルタイムだったので勉強を教えてくれた記憶はありません。
幼少期の記憶はほとんどおばあちゃんとおじいちゃんと遊んだ記憶だけです。
そして、父と母が離婚して学校もろくにいかず施設に入ったのでまともに勉強をしていません。
小学校の担任の先生は数学の先生だけあって九九をすらすら言えないと居残りが確定するのが当たり前でした。
九九が始まり私は勉強と言う物をほとんどしていなかったので全くできず毎日1週間は学校で居残りをしていたと思います。
幼少期勉強していなかった名残か今でも暗算はほとんどできません。
そんな辛い日々が続きました。
私はただバカなだけだったのかもしれませんが大切な時期に勉強をしていなかったので全くと言って勉強ができなかった幼少期です。
今から思えば本当につらい日々でした。
それなりに生きていけるへつづく
村瀬
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